ノート「生き延びるためのラカン」


友達に勧められたのでメモ。構造主義の人らしい、全然詳しいわけじゃないけど実存主義の人しか知らなかったから結構新鮮。

難解と言われるラカンの中で、これが一番わかりやすいらしい。死ぬほどわかりやすいと言われても、やっぱりいまいち回りくどい感じがする...。主語がでかすぎたり、論理的に飛躍してたり...。

A は B である。みたいな文章が欲しい...。それこそゲーデル不完全性定理ばりに、あるいはニーチェみたいに道徳はクズ弱者のポディショントークや!みたいな目の覚めるようなものだったらいいんだけど...。いまいち、根拠の持ッてき方から、論理の展開の仕方がしっくりこないんよね。

でもこの本自体は確かに面白いし、とても読みやすい。内容を精査しながら、すこしずつ読み進めたいと思う。

Lecture 1. なぜラカンなのか

Lec 1 は、ラカンの導入

癒しも幻想だけど、絶望はもっと幻想だ... 幻想と現実がどんどん接近しているように見えるこの世界でできるだけリアルに生き延びたい。そのためにも僕たちにはいまことラカンが必要なのだ。

癒しも絶望も幻想である説明は Lec 1 ではなされない。ラカンを読むことで、そんなよりリアルに生きることができるのかな。まだ、わからない。

ラカンの視点の紹介として、なぜ携帯電話の電車内での使用が不快なのか説明している。理由は、精神病患者の独語に近いものがあるから。

確かにそういう研究があるらしい。

周りから見ると、携帯電話の会話は対面の会話より、気になり、うっとうしく、迷惑と感じるものだ。声の大きさも問題だが、会話の片方しか聞こえないという要素も苛立ちに影響を与えているようだ。

=携帯電話の通話って、どうして気になるのかな | 教えて!goo

ただ、筆者は『電車の中で携帯電話を使う人間は、いまや世界中で憎しみの対象だ。』としているけど、海外ではマナー違反とは捉えられていない。アメリカ、ヨーロッパは OK なんじゃないだろうか。

海外旅行、大好きです。だけど、禁止されている国を見たことがありません。アメリカやヨーロッパでは禁止されてないです。

アメリカやヨーロッパ、電車内での通話は禁止されていますか?- Yahoo!知恵袋

新しい発見は、まだ得られない。

Lecture2. あなたの欲望は誰のもの?

欲望は他人の欲望である
欲望は、それを他人に認められることで初めて意味を持つ
欲望は満足不可能である

『欲望は他人の欲望である』というのは、確かに直感的に分かるかもしれない。もう少し簡単に言えば「他人のものを欲しがる」といことなのかな。でも、それがなぜかは Lec 2 では、まだ説明されない。Lec3 で説明される。

そのような他人のもの、他人の尺度で欲しがることを「欲望」と定義し、食事、睡眠、他人との尺度ではなくなどを欲しがるものを「欲求」として区分けした。

例えば、どこぞの一流大学の学生を対象にした調査で、たとえ収入の絶対値が低くても、平均値より高ければ、そちらの方が望ましいという調査結果がある。例えば平均年収200万円の世界で年収300万円貰うのと、平均年収1,500万の世界で年収800万円貰うのでは、前者を好む人が多いみたい。


発見① 他人が欲しがるものが欲しいこと「欲望」がある。
疑問① なぜ「欲望」が生じるのか?
疑問② なぜ「欲望」は満足不可能なのか?


Lecture3. それが欲しい理由が言えるか?

他人の「欲望」なんか存在しない。

わいは、すべて自分の欲求に根ざしていると思っている。

でも、ちょっとまって。キミたちは自分が「なぜそれが欲しいか」をうまく説明できるかな? ... 中略 ... つまりどんな人でも自分の欲望を説明するには、他人の尺度を持ってくるしかないのだ。P.34

ちょっとまって。この表現だと、あたかも欲しいと思うものは、すべて他人が規定した欲望かのような誤解を誘う。そうじゃない。他人の尺度で規定される欲しいと思うものが「欲望」と定義したにすぎない、そう言ったも欲もあると言ったに過ぎない。実際、自分の欲を説明するときには、他人との比較なくしては成り立たないこともあるのはわかる。しかし、間違いなくこの表現は誤解を生む。

「一〇パーセント引きで安かったから」、「他社製品よりも薄くて軽いし、早くて正確だし、全体的にさっぱりしているから(なんだそれは)」

筆者が反証としてあげている上記の例は、十分に欲求に根ざした理由だ。安けりゃ、浮いたお金で美味しい物が食べられるし、薄くて軽ければ持ち運びに便利だ。実際に突き詰めれば、自分にとって好ましい結果をもたらすと判断したから行動しているのである。もし、言葉が無い世界であっても、同じように行動するだろう。

『他人の尺度』であるかもしれない、つまり他人の価値観であるかもしれないが、他人が望んでいることではない。別に他人は、「安いものを買いたい」とも「軽くて薄いパソコンを買いたい」とも思っていないのだ。

私は iPhone7 が欲しい。おそらく筆者は、なんとなく欲しいんでしょ?みんなが欲しいから、欲しいんでしょ?って言いたいんだと思う。そしてそれが欲望だと。違う。一面そういう面もあるかもしれないが。自分の場合は PC は iMac, タブレットiPad, そしてスマホAndroid なのだ。そうすると一つだけ Apple 製品じゃなくなるので、データの同期とかが面倒なのだ。

しかし、では実際に、どういう例があるのだろうか?筆者は欲しいものの理由を言ってみろ、でも言えないだろ?と問いかけるけど、大抵それは言葉にできていないだけだと思う。『欲望は他人の欲望である』という例は、無いとは言えない。しかし、ごく希少だ。しかも、例を探すのが困難なくらいに。

価値観は言葉によって定義される。

例えば、芸術作品がいい例だ。考えてもみてほしい。あんなゴッホピカソの写真、おそらく一般の我々には到底、理解できない。しかし、現物を海外の博物館から取り寄せて六本木で公開しようものなら、大量の人が押し寄せる。これこそ「ゴッホ = 良いもの」という言葉、他人が私たちの欲を定義している。

優れた芸術家は存命中には理解されないというのは、こういう観点からも説明がつく。最初は誰も見向きもしないけど、誰かがその価値を見つけ欲求することで、それが言葉になって、多くの人のになるわけです。もちろん、そんな「ゴッホ = 良いもの」という言葉だけで成り立つものではなく、権威のある人の評価だったりも必要になるけど。そこには明らかに、「ゴッホ = 良いもの」という言葉による "価値観" が介在する。つまり、「欲望」は、他人の価値観に基づいた欲求と言い換えた方が、より適切な表現だと言える。

他にも首長族なんかもそうだ。首の長い女性が美しいってことで、みんな首を長くしてしまう。こういう欲望の恐ろしいところは、意識してないと欲求と区別がつかないことだと思う。

そして、この主張をもうすこし拡張するなら、言葉は人間の欲だけではなく、行動も規定しているとことがある言える。それは例えば法律もそうだ。道徳心であったり。昔そういえば、法哲学の授業で法律よりも道徳心の方が人を縛るんや!って教わって衝撃を受けたな... あれの原典はどこにあるんだろうか。そうだ、その道徳は、なぜ正しいのか?それを木っ端微塵に粉砕したのがニーチェだったりするのだろうか。

だから広告っていうのは、「植え付けたい欲求」を「言葉」にして、相手に「欲望」として埋め込む作業も、一面的にある言えるかもしれない。全部がそうじゃなくて、イメージ広告なんかだと、もちろん違うけど。すでにある「欲求」を、これで叶えることができますよ、と植えつける作業か。

 

論理が飛躍してる...

赤ん坊は「去勢」に伴い "母" を失い、代わりに「言葉(存在の代理物)」を獲得する。以下、冒頭の「他者」は「言葉」を指す。

ところで、どうしてこの他者が必要になったかと言えば、それは「存在の代理」としてだった。言葉そのものは当然ながら、なんの実体も持たない空虚な音に過ぎない。その意味で、言葉は空虚な他者とも言える。そう、そんな他者を自分自身にインストールするっていうことは、自分の中心に「言葉という空虚」を抱え込むことなんだ。... 中略 ...で、「欲望」っていうのが、この欠如を埋めたいというところからきているんだけど・・・・・。

『この欠如を埋めたい』という言葉は、何を指しているか?おそらく筆者は、この文章からすると、恐らく...「『空虚な他者』を埋めたい」ということを指したいのだと思う。

でも、それなら他人、他の誰かを欲するようになるはずで、別に他人が欲しい物がを欲しいとはならない。(もしかしたら、「寂しい」という思いの根源はここにあるのかもしれない。なんとなく、あーそうかもという気がなんとなくしてきた。)

友達に聞いたら「エディプス期に刻印された欠如を、埋めようとしてる」って言われたんやけど、もう意味がわからないというか、この文章は、理屈は面白いけど、論理的に飛躍してるのでスルー。

「『空虚な他者』が埋めたいと思っていることを埋めたい」と思うことが、『欲望』にあたるんじゃないのかな。


発見① 他人が欲しがるものが欲しいこと「欲望」がある。
疑問① なぜ「欲望」が生じるのか?
→ 「言葉」、「他人」が欲しいものを定義しているから。
疑問② なぜ「欲望」は満足不可能なのか?
→ 理由は不明。

Lecture4. 「こころ」はどれほど自由か?

シニフィアンの本質は音になんかない。

そもそもシニフィアンが何かわかってないから、こんなこと言っていいのかわからないんだけど。

言葉の本質は音にある。そう、いわゆる「シニフィアン」だ。P.44

シニフィアンの本質を音にあるとすると、耳の聞こえない人はシニフィアンの "本質" がないことになる。」したがって「"すべての人" にとって、声がシニフィアンの本質であるとは言えない。"すべての人" にとって、声は文字や身振りなどと同じ、シニフィアンの一形態に過ぎない」と言える。背理法的に説明してみました。

この説明をしたら "本質が無くても獲得は可能だ" って友達に言われたのですが、まあ、私見なので納得できない人はスルーしてください。でも、「サッカーの本質はボールを蹴ることだ。」「作家の本質は言葉を伝えることだ。」という文章を考えた時に、果たしてボールを蹴れなくてもサッカーが学べる、言葉を伝えることができなくても本が書けると言えるのでしょうか。このあたりは言葉遊びですが、私は違和感を禁じえません。

本質(ほんしつ、希: ουσια (ousia), 羅: substantia / essentia)とは、あるものがそのものであると云いうるために最低限持たなければいけない性質をいう。もしくはそうした性質からなる理念的な実体をいう場合もある。

本質 - Wikipedia

一対一に固定された関係を持つ「記号」なんか存在しない。

記号はその対象と、一対一に固定された関係を持つことで、独自に意味を持つことができる。

試しに「一対一に固定された関係を持つ」記号をあげてみてください。そんなもの存在しないから。特に看板なんかいい例やと思う。スタバの看板とか見たら、おしゃれ、コーヒーとかいろんなイメージがある。あれを作るために数億という金が動く。


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スタバの記号(看板)


そんな極端な例じゃなくても、例えば ☁ ☀ ☃ ☂ は、一見一対一の関係だけど、☁ の記号を見たらそれに合わせて、他のものも一緒にイメージをする。言葉となんら遜色ないやん。こんな単純な記号でさえそうなんや。だから、この場合、適切な表現としては言葉は対象と一対一の関係にない。とうことが望ましい。記号なるものを定義する必要性はない。

☁ ... 雲, どんよりした
☀ ... 晴, 爽快
☃ ... 雪, 冷たい
☂ ... 雨, 濡れる, 面倒くさい

もしかしたら ☁ → 雲 → 雲の様々なイメージ のつながりだから、☁ → 雲の一対一やっていう反論もあるかもしれないけど、そうだって言える根拠がある?ましてや、そうだって言わなくたって、この先の論理の展開にはなんの影響もないさそう。

言い換えるなら記号同士はなんのつながりも関連性ももっていない ... 単語が意味を持つのは、あくまでも他の語との関係性すなわち文脈の中でしか可能にならない。

記号って単体で意味を持つの?例えば ☁ ☀ ☃ ☂ という記号は、天気予報に出てきて初めて意味を持つでしょ。㉆ ♨ 〶 ☓ と言った記号にしたって地図に出てくることによって、地図という文脈の中で初めて意味を持ってくるやん。記号単体で意味をなすものなんてないんよ。存在しない「一対一に固定された関係を持つ記号」なるものを定義してしまったがゆえに起こる矛盾。

「犬の記号」は犬しか意味しないけど、「犬」という言葉は犬に直接結びついていない。P.13

ちなみに「犬」、「鐘」という2つの文字は言葉か、それとも記号か?もし筆者の言葉を借りるなら文脈の中で使われていないから、記号ということになる。

Lecture 5 「シニフィアン」になじもう

意味の無い記号

顔文字は意味が無い記号だ。
^^, T_T, > <, ^^/, (`・ω・´), (´・ω・`)

意味が無いものは記号ではない。P. 51

シニフィアンの本質は音になんかない(2度目)。

「存在」を「言葉」に置き換えることは、安心につながると同時に、「存在」そのものが僕たちから決定的に隔たれてしまうことを意味している。P.5

これってどういうことだろうと思いました。そこで実際に「赤ちゃん」、「自他区別」で検索したら、欲しい記事ができました。

生まれたばかりの赤ちゃんは、自分と他人の区別が付いていませんが、おおよそ1歳6ヶ月ぐらいになるころには区別が付くようになるとされています。それは、次のような実験で裏付けることができます。

赤ちゃんはいつごろから自他の区別がつくのか

このような現象は、やったことはないですが、言葉を持たないチンパンジーでも同じようなことは起こるのではないでしょうか?

ましてやフロイトの論文の引用でも、まだ言葉を学習していない子供が引き合いに出されています。

つまり「言葉」というよりも「概念」に近いのではないでしょうか?

本文中では象徴界は音声を伴った言葉によって構成されていると書かれています。つまりシニフィアンというのは「概念」なのではないかということ。本質として音、音声を持って来るのは、ちゃんと要因分解できていないのではないのか?ということです。

概念を持つが故に隔たれてしまうというのはわかる。なまじ知性があるが故に「他者」を認知し、寂しい思いをするというのはなんとなくわかる気はします。

現実と接することは苦しいことなのか?(書きかけ)

むしろ、その獲得が上手くいかなかった精神病患者は、常に現実に接しているため苦しめられているとも考えられる。P. 61

しかし、仏教においては「自他一如」という言葉があります。自分と他者、他のものや周囲の環境を区別しないというような意味です。

曹洞宗の開祖である道元禅師の著書、正法眼蔵には坐禅をしていると周囲の景色と自分が一体になるような感覚があるという文言が確かどこかにあったと記憶しています。

坐禅を通して自他一如の精神、心境に近づいていると解釈しています。この時、私は言葉の世界から離れているのでは無いかと感じているのです。

「考えると現実から離れる」という話を曹洞宗のえらい坊さんがしていたように記憶しています。

「考える」つまり文字をベースにして「物事」を捉えると、その「物事」そのものから離れて行ってしまうということだと考えています。

つまり彼らは、修行を通して象徴界を離れて、現実界と接しようとしているのです。

しかし、彼らは苦しめられているのでしょうか?むしろ平安を獲得しているように見受けられます。

何故、平安を得られるのでしょうか?我々はあらゆるものに意味づけをしています。

落ちているゴミを見て掃除しないとと思ったり、夕暮れが近づいてくるとご飯の支度をしないとと思ったり、情報過多な状態になっています。

ワーキングメモリが常にいっぱいの状態になっています。この状態をメモリを解放することで疲れを解放することができます。

文字にすることで現実から離れられるというよりも、恐怖の対象、不快の対象を明確にすることが、脳への負荷を軽減するのではないか。

例えば、数学とかで、よくわからない問題に出くわすと、圧倒されて何がなんだかわからなくて、それに飲み込まれてしまうような感覚に飲み込まれます。

一方で、問題のポイントというか解法を理解していると、その負荷は一気に減ります。問題を俯瞰することができます。

ストレスを軽減することはできても、根本的な解決策という訳ではありませんが。

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