忖度そのものを問題にするのは問題だと思う。

なぜなら、権力を付与すると言うのはそう言うことだから。どう言うことかといえば、忖度を防ぐことはできない。いかなる細かい言動でも、忖度をするように働いてしまう。だから忖度を禁止するような法令などを整備するのは、配下の人間に不要なエビデンスをとる作業を増やすことになる。しかも、どんなにエビデンスをとってもそれを防ぐことが難しい。忖度が起こることを前提にした制度設計が大事だと思う。忖度そのものを問題にするのは、色々と面倒だと思う。あとあと。

この場合、特に問題にするべきは、なぜ忖度をしようとしたのかだと思う。愛国主義的な教育が重要だと思ったから忖度した。むしろこっちの方が問題だと思う。でもこの論点では、野党側的には、指摘の矢が鈍るか。忖度があった、とした方が法的には黒にできるけど。愛国主義的な教育は黒とはいえないから。愛国主義的な何かには巻き込まれたくない。なぜ、愛国主義的な教育は醜いのだろうか。

それは翻っていえば、それを推進する人たちの自尊心を満たすために、周りの人間に犠牲を強いるやり方だからである。誰かを好きになったり、嫌いになったりするのは、一種の物語の中で形成されるものである。その愛国主義的な教育というのは、その物語そのものが酷く陳腐だし、その背後に隠れた自尊心を満たすために他者を犠牲にしようとする、自己犠牲の精神を要求しようとする見え透いた欲望が醜い。

よく少年犯罪の増加が取りざたされた時に道徳教育の強化をあげたりする話を聞くけど、足りてないのは愛情であったり、ちゃんとしたご飯だったりする。タダでさえ何も足りていないのに、道徳教育やら愛国教育で、彼らから一体何を吸い上げようというのか。だから自分は、ああいう愛国教育とかを見ると、酷く憎たらしく感じるのかもしれない。