芥川龍之介の自殺について
この本がすごくよかったから他の本も買ってみたら、どれも酷い鬱展開で驚いたのを覚えています。 芥川龍之介は児童文学よりも、こちらの方が本分ですが笑
「蜘蛛の糸・杜子春」に掲載されている話と「それ以外の話」を比較してみます。 「それ以外の話」は人間の負の側面に対するすごく細かい『洞察』であるのに対して、 「蜘蛛の糸・杜子春」は『奇跡』に頼ってしまっています。
「蜘蛛の糸・杜子春」に限らず、「奉教人の死」も前向きな話ではあるのですが、『奇跡』に頼ってしまっています。 「長編を物にすることはできなかった」という指摘が何を意味しているかというと、
短編の傑作を残した一方で、長編を物にすることはできなかった(未完小説として『邪宗門』『路上』がある)。
芥川龍之介 - Wikipedia
心の変化を描くことができなかった、あるいは興味が薄くて描かなかったということかなと思っています。 昔、授業で長編の小説は「心の変化」を描くこと。という話を聞きました。
「心の変化」を描けていないから司馬遼太郎は確かに大量の売れてはいるけど、 文学としては認められていないよね、みたいな話を聞いて「なるほどー」と思ったのを覚えています。
例えば、ドストエフスキーの「罪と罰」は、基地外であるラスコーリニコフの心の変化を描いています(小説内でラスコーリニコフは変化しましたが、僕は基地外のまま取り残されてしまいました)。
あるいは、さだまさしの「解夏」は、徐々に失明していく主人公の心の変化を描いています(この小説で僕は長崎県が好きになりました)。
芥川龍之介は、登場人物の心を変化させず長編を物にしなかったのと同様に、自分自身の心も変化させませんでした。 ずーっと、人間の暗い部分に対する洞察を深めていきました。
芥川龍之介は、人間の負の側面に対する洞察が深いあるいは描写が鮮明であることに比べると、 人間の正の側面に対する洞察が不自然に浅いあるいは描写が不自然に不鮮明です。
正から負あるいは負から正へと、登場人物の心の変化を描くための土台が、 いくらか欠落している気配があります。 これはドストエフスキーが、罪と罰の中で、ラズミーヒンのような THE 陽キャ と、 ラスコーリニコフという THE 陰キャ (というか基地外)を同時に描けているのとは対照的です。
人間の正の側面に対する洞察あるいは描写する "能力" 的にできなかったという訳ではなく、
芥川龍之介の作品が「人間の負の側面」に焦点が当たっていることは、既に多くの方が指摘していますし、 暗い作品が多いので、読めば雰囲気は掴めると思います。
では逆に「人間の正の側面」への "興味" とはなんでしょうか。 「蜜柑」 は、 『奇跡』に頼らずに「人間の正の側面」に焦点が当たった数少ない例外かなと思います。
「蜜柑」の素晴らしい点は、"貧困", "不衛生" と言ったネガティブなイメージの中から、 "思いやり", 景観的な "美しさ" を導き出している点です。
ごく短い作品ですが、一番好きです。最後の一行を読むと、
「人間の正の側面」について洞察された作品であることが示されています。
しかし最終的に、「人間の負の側面」、深淵を覗き続け、深淵に引きずりこまれていってしまいました。 「ぼんやりとした不安」とは、おそらく芥川龍之介の「人間の負の側面」に対する深い洞察が生み出した怪物でしょう。
怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。 おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。
フリードリヒ・ニーチェ - Wikiquote
"貧困", "不衛生" から "思いやり", "美しさ" を導き出した「蜜柑」と、 "苦痛" の中から "美しさ" を導き出してしまった 代表作である「地獄変」を比較すると、 小説を書く作業を通して怪物を生み出してしまったのかなという気がします。
「河童」 を読むと、 怪物そのものは見えなくても、怪物に蝕まれてしまった芥川龍之介の心境の一旦が見えます。
ポジティブシンキングで人間の正の側面に焦点を当てていれば自殺はしなかった、 というのは流石に酷ですが。 その原因と対策は、既に亡くなられた方ですが、考える価値のあることではないのかと思ったり、思わなかったりします。
個人的に「蜜柑」が好きなので芥川龍之介の晩年が、もっと違う形だったら、 どんなによかったのだろうかと思えてしかたない時があります。